昭和44年10月24日 朝の御理解
御理解 第6節
「目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。」
目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。目には見えない。けれども、天地の親神様のお働きの中に私共があるという事を実感させて頂けれる信心。神徳の中に、天地の神様の御神徳の中にある実感。親の懐の中に、ある、いわば実感。ね、そういうようなものが、頂けると言うか、感じられる生活。天地金の神の広前は世界中であるぞと。それこそ、私共の住むこの地球上と申しますかね。
その隅々にいたるまで、その神様のお働きに漏れておるという所は、ないんだとこう、教えられております。「事物?」を頂きますとね、なるほどそうだなと、こう分かりますのですけれど、それやはり実感として、そういう働きの中に生かされて来ておるという実感が頂けるという事は、やはり、そこに信心の修行が求められ、信心の修行がなからなければ頂けんのじゃないかと、こう思うのですね。私の、まあ修行中。
様々な不思議な事が沢山ありました。どこからともなしに何て言うんですかね。心に響いて来る心の上に響いて来るその声と申しましょうかね。「そういうその」まあ言うならラジオを聞いておりゃあ、ね。目をつぶればもう目の前に様々な一つの霊体と申しましょうかねそれが見える。本当に気違いになるような感じですよね。本当にやっぱあれが長く続い「とると」やはり気違いになるんじゃないかと思いますね。
身動きが出けません。こうして、様々な事、物体がこうありますとね、この物体に対する一つの霊体というのが見えるね。もう鉛筆一本でも、これともう一つの鉛筆が見えるんですね。もうある時なんかは「ただいま言うように?」目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ、と仰るけれども、その神様が目に見えるのである。もうそれこそ、分けて通りおるようなものじゃと仰るけど。
本当にもうだから神様ばかりだから、勿体無うして歩かれない。例えばこの畳の目。もうこの目一つ一つの中に神様が宿ってござる。お装束を着けた方達がいっぱい「ふかと思うたらあの」お釈迦様やら、ね、あの色んな仏様のあの、あれがありましょうが。そういう方達が、もうこの畳の目一つ一つに見えるんです。もう勿体無うしてから畳を踏まれん。だからそう言う様なですね。目には見えんがと仰るが、その目にもし見えでもしたらですね、人間は生きては行かれない。
むしろ一寸先が闇の世ち言うかもう一寸先がですね、そういうその目にその見えるという事はですね。ね。ですからそのそれが目に見えんという事が有り難いのです。耳に聞こえて来ないという事が有り難いのです。ジャンジャンジャンジャン、いつもずうっとラジオそのが鳴りっぱなしの様にですねあってご覧なさい。人間は気違いになってしまいます。天地が例えば天地がですね。
地球が例えば回転しておるその回転音とでも申しましょうかね。その響きはそれはそれはとても大変な大音響でしょう事実ね。その大音響がもし私共のこの人間の耳に入って来たら。もうそれこそ大変な事ですあまりにも大きいから聞こえないのです。神様のお働きという物はあまりにも大きいから誰にでも分からんのです。あまりにも偉大だからですそこで私共はどうにでも目には見えぬが、神の中を分けて通りおるものじゃ。
耳には聞こえないけれども、神様のお指図の中に私共が動いているんだと。いわゆる動かされて動いておるんだ、生かされて生きておるんだと。「目指させて」頂いておるんだという事を分からせて頂くと。初めて神の中を分けて通る実感わが身は神徳の中に生かされてあるという実感。中々難しい事であるそれを実感として、それを心に感じれれる。そこから有り難いという感謝の面が起きて来る。
それは畑で肥えをかけておろうが、道を歩いておろうが。どんなに汚い事をしておろうが、ね。どのような場合どこであろうが一度もどこにでも、天地の神様のお働きの中にあるのだと。今朝私御神前に夏の夜の風物詩ですね。蛍が飛んでるその蛍を「こりゃあ」笹を持ってこう、追っておるというような状態。ね。ほうほう蛍来いと言うてその、まあ稿で唄を唄いながら、蛍を追っておる状態。
取れる取れないは別として何とも言えん一つの、確かに風物詩である。ね。私共が信心させて頂く者がですね、まあ蛍という事は一つの、まあ霊光ですよね。不思議な光りを放つとこういう事。例えば合楽教会にお参りをさせて頂きますと、その霊光を感ずるです。ね、何とはなしに神様の働きと言った様なものを、ここに感ずる事が出来るのである。本当に、神様の働きの一分一厘間違いなさを実感する訳ですね。
もう色んな意味でそれを感じるここではね。だからまあ有り難い訳なんですけれども。それはちょうどですね、私はその霊光を追っておるワラビを唄いなっ、唄を唄いながら追っておる其れの様な物ではなかろうか。朝の御祈念にお参りをする。何とはなしに一つの霊気と言うか神気と言う様な物が、このお広前いっぱいに漲っておる。静かに静かに御祈念をしておられるそのムードというか。それはやはり何とも言えん。
昔から皆さんが、一切に電気がパッとついたら、御祈念が始まる。一つのリズムに乗って、大祓いを一生懸命奏上させて頂いておると。それこそ我を忘れて、一生懸命の御祈念をしておる。そしてわれ神と共にありと言うか、今われと神様が交流しておるのだという、そういう実感がここでは感じられる。心行くまで御祈念をさせてもらう、確かにそういう物があるんだと。
そこに合楽のお広前の魅力が、まあ言うならばあるのじゃなかろうかと。けれどもそれはね、れは子供がですいわゆるわらび唄を唄いながら、蛍を追っておるようなただ雰囲気。ただそれが素晴らしいというだけであっては、ね、霊光では本当の値打ちはない、霊光。例えば私が、ね。神何神の声か何か分からんけれども、もうとにかく私の信心に響いていくること。私の霊眼に見えるいわば神様の姿。
仏様の姿というものが畳の目一つ一つの中にある。なるほど神の中を分けて通る実感があるけれども、それでは人間身動きが出来ん。ただ信心の有り難さというのが、ただお広前にお引き寄せを頂いてです、ね。いわば朝の「四十万?」を破って流れてくる大祓いの声がです。何とも言えん有り難いものに違いはないのだ。確かにそうなんだけれどです、ね。その時だけ、そこに神様を感じたんではいけない。ね。
信心の者信心者ばかりの集まり。そこから何とも言えん有り難い雰囲気がですね、感じられる。その雰囲気だけが有り難いのじゃ、つまらん「けん?」。みんなに信心のない人達の中に交じっておっても、それぞれのいわば、生活の現場においてです。その神様を感じられ、そこに神を見る、私は生活に入らなければ本当な事じゃないと。ね。言うならばです、その不思議な光り。ね。
いわゆる蛍の光の様な、その光に魅せられるという信心ではなくてですね。言うなら、提灯の光りが有り難いと言うだけではなくてです。昼この様に例えば煌々として明るい、いわばお光の中に住まわせて頂いておるという事にです、私共が信心の目を向けそこからです有り難いものを感じれれる信心。誰だって暗い時に提灯貸してもらや有り難いね。それこそあの世に灯火をおいた様な心地で有り難いと言うけれどです。
それをただおかげ。それだからそれを霊験をこう、ね。不思議な印とも言う「訳です」。その不思議な印を見らなければ、有り難いという事が分からないという信心ではです、いけません。ね。目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃと。霊光そのものも確かに有り難い雰囲気を持ち、または、その霊光によらなければ、私共がですね。やはり、不思議な働きを受けて行くという事がです有り難い。
けれどもそれだけが信心じゃない。それはもう信心の言うならば、まあ枝葉のようなもの。もし信心が霊験だけで固められておるとするならです。それももちろん生きた働きですから、有り難いけれども、私はそういう信心なら大した値打ちはないと思う。ね。私20年前に様々な、まあ不思議な現象を見たり聞いたりしたん。ね。と言うならもしもそれが今続いとったら、私はやはりいわば霊能者に間違いないですけれども、やはり気違い扱いされても仕方がない。
人の見えない物が見えたり、人に聞こえないもんが聞こえたり、という事だけがも信心の売り物であるとするならね。話を聞いて助かる私共の心の上にです、ね。自らの心の中に開けて来るものがあるね、それを悟りと言う。いわゆる物の見方物の考え方がそこから変わって来る。今まで難儀と見ておったものが、難儀ではなくてそれを神愛と感じれれるようになって来る。心の目が開けて来ると、こうね。
そこにいわゆる神様。そこに分からせてもらう神様のお心御心。そういうおかげの中に私共が浸らせて頂いて、初めて私は目には見えぬが神の中を分けて通りおる実感というものが、いつも頂けるのではないかという風に思う。ここに不思議な働きというものがあって、はあ不思議な事っちゃあ、有り難い事じゃあると言うのは、それは暗い所で提灯の光を貸して頂いたようなもの。だからもちろん有り難い。
「 」、灯火を得たるがごとしであるね。それではなくて、自分の心から、ね、一つの放つ物と言うかね、光を放つと言うかね。自分の心の中に開けて来る物、それを信心では悟りと言うね。そこに、はあ、そうだとこう、本当の事が分かるね。そこに、教えを頂かなければならない、やはり修行させてもらわなければならん。教えに基づいて修行させてもらわなければならん。そこから翻然としたものが開けて来る。
そこからは今までの物とは違った、言うなら次元の違った世界がある訳ね。物の見方考え方がそこからすっかり変わって来るんです。ね、それを、神の働きをそこに感ずる事なの。神の姿をそこに見る事が出来るの。別に「かんむき?」が売ってござる神様でもなからなければ、ね、坐禅を組んでござる仏様でもないね。言うならただこう相対してですかね、人間関係でもそうなのである。
やっぱり今までの家内に違いはない。やはり子供に違いはない、自分の友人に違いはないけれどです。霊体じゃないけれどもですね、その中にあるもの言うならばこちらが、その神性と、神の性というものが発揮される時に、相手のそれが神様の姿に見えてくる。ね。これが神様の御物に見えてくる。だから粗末には出来ない。神様の姿に見えて来るから、家内を拝みだしする、主人を拝み出す。
周囲のすべてを拝めれるようになってくる。そのようにいわゆる心の目を開かせてもらう事によって「添わって?」来る。考える事もそうである。今までは腹の立つ事だと思うておった事がです、有り難い事として感じれれるようになる。初めてなるほど目には見えないけれども、その向こうに働き、その向こうの働きとでも申しましょうか。ね、と分かる時初めて、神の中を分けておる。いわゆる神様のこういう神愛、ね、神の愛の中に私共があるんだという事が分からせて頂けれる。
なるほど肥えをかけておろうが、道を歩いておろうが、ね。森羅万象すべての物が神様のお姿と、神様の働きとして頂けれる、感じれれるところまでの、信心を高めて行かなければならん。ただ、合楽のお広前の雰囲気がいい。合楽で頂くいわば不思議なおかげ。それは、ちょうど暗い所で提灯を貸して頂くようなものだと。それだけを神のおかげだと言うたら、信心は非常に小さい物になって来るね。
それも不思議なんだだから霊験と言うのである。霊験新かだとというだけで神様があり、というだけの為に信心がお互いにあるとするなら、けれどもそれはやはり小さい。まあ言うなら、低級視されても仕方がない。そういうおかげを頂けれるという事と同時にですね。私は、私共の心の目を開かせてもらえれる信心。そこから、見方が変わって来る、考え方が変わって来る。
これはもう実感としてそう変わって来るね。例えば病気一つでもそうです。私がなら医者に言わせれば、まあひどい糖尿病であるけれども、なるほどそれは糖尿病に違いはない。けれども糖尿病という名の神様の御都合だと思うておる訳ですね。ですから糖尿病のそのものには一つも恐さがないね。それには一つも不安がない。問題はその向こうにあるもの。その糖尿病という名の向こうにある神様の御神意御都合が分かって来る。
だから有り難い事が分かるのです糖尿病の事に対してはあ私がもし糖尿病に今かかっていなかったら、現在の合楽はないとさえ思う様な事があるね。私が学院に一年間入らなければならないそれはどうでもこうでも周囲の圧迫と言うか。それで私を是だけの信者を要しておるのに私が一年間、御本部行かんならんという事態になったんですからね。だから私も行く腹になり皆さんも私を御本部に送って下さる事になったんですよ。
さあ向こうに御本部に参りました。そのために医者に診断書なんかがいりますから。「 」させて頂いたら初めて分かったのが、糖尿病であった腎臓であった。今度は本部の方で、それを引き受けて、糖尿病やら全然だから引き受けてくれない事になった。それでもここには「 」助かって行きよるから、教会をしない訳にはいけんから、なら私に教師の資格を下さろうという事になったんですから。
教会に看板が上げられるようになったんですから。もし私が一年間いなかってごらんなさい。おそらく合楽の一つの霊光と言うか。ね、そのただずまいと言うか、雰囲気といったようなものに引かれて参る人達が多いのですから、おそらく、ね、純粋な信心を求めておる人達だけになって、合楽、現在の合楽はない結果に、いわばそういう働きが一偏中断されるような結果になっておったに違いはない。
こちらが行こうという気になった時には、もうすでに私のここに、ね、糖尿病という名の神様の御都合があったんだから、糖尿病を恐れるに足らずという事になる。私がもしこの病気でなかったら、私はもう「一年中」教会を開けとかんならんとですよ。教会中が行かなけ、もうそれこそ御結界の御用のところば、外にそれこそ使いまわしにしなきゃならん事だろうとこう思います。一番若い教会ですし、ね。
私共は今日もくしわら教会の御大祭にお参りさせてもらわなきゃならんのですけれどね。そういう先輩の教会、手続きの。もうそういうお勤めだけだって大変なこと。けれども、私が糖尿病であるおかげで、皆さんもそれを見てみておって、下さるおかげでです。私はいつもここへいつまで立ったっちゃ、親先生と会えるという事になっておるのですよ。考えてみるとまだまだ、深い深い。
本当に神様の御都合だという事を、感じん訳にはいけない事がたくさんあるのですよ。それこそ、目には見えぬが神の中を分けて通るような実感をです、私共がせん訳には行かんのだ。糖尿病なら糖尿病を通してからでも。神様の御都合と言うのは、目には見えん、耳には聞こえて来ないけども、こういう神様の御神意、御都合があればこそ、私は糖尿病であるんだという所にですね、神様の御都合勿体無し、神愛有り難しという事になって来る訳なんですよね。
だから私そういう意味においてですね、私は一段信心をその私は今日霊光という事を申しましたがね。それに対するまあ神光と言うなら神の光を言う。本当の神の光を分からせてもらう。ところがその神の光はあまりにも偉大である、あまりにも大きいのであるから、さあと言うても分からんのだけれどです。ね。私共が話を頂きね。話を聞いて助かると仰る、話を聞いて心が開けて来るね。
それを悟りと言うとこう申しましたね。悟らせてもらった所に今までの例えば難儀に感じておったものが有り難いという難儀ではないと、例えば見れれる様になり感じれれるようになり。そこに神愛を見る事が出来る感じる事が出来る。目には見えないけれども、目には見えないけれども、成程神の中を分けて通る様なものじゃ。神の一分一厘間違いのない働きの中に現在の私があるのだという事が、感じられて来るのですね。
昨日ある方が2~3日前、自動車に追突をされた。こちらは運転免許持たない。小型の運転免許でその、それに大型の自動車に乗って行きよった。相手はあの素晴らしい外車であった、ところが相手が悪かった。もうそれは、まあある意味で、もう札付きと言われるように、もう大変、まあ〔悪らく?〕な事を平気でやるグループの持っておる車であった。ああ、それで大変心配されましてね。
〔すごすの?〕事故の起こりました〔現場か?〕では分かって参りまして、警察に届けようか、示談で済まそうかという事であった。だから、示談で〔その?素直?〕して頂くおかげを頂きなさいて私が。ね。段々、話が進むようになり。まあ、確かにこちらが悪いのに間違いないもんですから。例えば運転免許持たないという事だけで〔ごうぐられる?〕値打ちは十分ある訳です。ね。
ところがですね、それこそ思うておった半分ぐらいな金額。しかも今経済的に困っ、ある意味で困っておられますがね。少しばかりのお金を、五分のつぐらいな金を払って、後、手形で毎月払って行くような事で話がついた。はあ〔ああいうヤツに?〕そういう事になったのが、こういう事で解決するとは、とても不思議でたまらんだけではなかった。普通、例えばこれだけの五分の金を払うという事ですらが、実際のその人の上には出来ない事であったが。
丁度その時にね、お金が入って来るようになっておった。その金額がその金額じゃった。で、昨日、夫婦で出て見えてから、本当に神様のお働きの中にこの事故が起こったという事が分かりますて、夫婦の者が言っております。ね。すんまっしぇんお払いせにゃんばってんから、そのお金がなかですけんでじゃとても通しちゃくれん、済ませちゃくれない。して見るとこの金が入って来るようになっておった事も、この事故が起こって来た事もです、御神意である事が分かるという訳なんです。
もちろんそこには自分が実意を欠いていた事ですよね。運転免許も持たずに運転しておったり。ね。様々なそこに反省させてもらえる、そういう事がならここにただおかげを頂いたという事だけではなくて、これから例えば自動車一つ使わせて頂くでも、使う内容が変わって来なきゃいけないと、まあ言うた事ですけれどね。目には見えないけれど、一つの交通そうした事故の中にでもです。
目には見えないけれども神様の働きがあっておった事を感じた。ね。そこに思いもかけない人が現れたり。ね。思いにないそれは思いもかけないじゃないが、そこに金策が出けて、これだけの金が入って来る事になっておった、その金がそこへ回される事になった。ね。神様の下心と言うか。それ前に目には見えぬけれども、神様のお働きの中にあっておったんだなという事が、まあ実感された訳なんです。
そこからその事故事態がです、ね。これは難儀な事ではなくて、神様の働きの中にあるとして、その事に対してお礼を申し上げれる、たら昨日の御理解じゃないけれどもね。そういう事に対してですら、お礼を申し上げれる心が生まれて来る。そのお礼こそが真だとね、昨日は頂いておりますように。ね。そういう信心の修行の中にですね、本当に目には見えぬけれども、そうした神様の霊妙深しいと言うか、一分一厘間違いのない働きの中に私共があるという事をね、それを私共の心で、そのキャッチして。
そこか、実感として、ね、神愛有り難しという事になるのじゃないでしょうかね。目には見えぬ、神の中をなるほど分けて通りおるようなものじゃと。それ、畑で肥えをかけておろう、道を歩いておろうが。という事はです、ね。汚い事をしておろうがです。例えば、道には背いたです。ね、人間の作ったその道には背いた事をしておろうが、ね。運転免許は持たずに運転しておるという事は。
人間の作った法則を曲げておろうがという事なの。汚い事をしておろうがという事、しておろうが、やはり神の中を分けて通るおるようなもんじゃという事が分かるです。成程天地金乃神の広前は世界中であるぞという事をです、私共がその霊光によって分かるというのではなくてです。神光ですかね。神様の光によって分からせてもらう。その神の光というのは、あまりにも 偉大であるから分からない。
分からないけれども、私共の心の目を開かせてもらう、悟りを開かせてもらうと、その光が見えてくる、その光が感じられる。ね。それを私は、物の見方、考え方が変わってくると、こう申しましたですね。それは、本当の光が分かるからなのです。ね。信心には、やはり霊験霊光という物は伴わなければ嘘です。その霊験霊光を低級視して、あの信心は低級だと決め付けてしまう宗教もあります。
けれども、もう決め付けておる宗教そのものが死んでおるから、霊光を放つ事が出来んのです。ですからそれは尊いです。けれども、それだけであったら、しかし低級視されても仕方がないのです。ね。そして今日私が申しますようなところをです、分からせて頂く時に、人間生活の上にです、ね、本当の信心させて頂いた者の値打ちを発揮して行く事が出来ると私は思うのですよね、
どうぞ。